エッチ前という提案

先日、家の中で虫を見た。

小指の爪よりも一回りくらい小さい、黒いヤツだった。

キッチンにある給湯リモコンの横にとまっていて、ティッシュで捕まえようとするとつぶれてしまったのでそのまま包んで捨てた。

そのあと風呂に入り、上がってから小さい缶のサイダーを飲み(量がちょうどイイ)、しばしぼんやりしてから歯を磨いて寝た。

 

目を閉じてしばらくしてから、突然さっきつぶした虫のことを思い出して、ハッとした。

――あいつ、ゴキブリだったんじゃないか。

急に背筋が寒くなって眠気もどこかに吹き飛んだ。毛布を引っ張り上げて頭の上までかぶった。ぞわぞわして全身がかゆくなってきた。

確かによくよく考えてみればそうだ。アイツは黒かった。触覚も生えていた。わりと長かった気がする。簡単に捕まえられたから意識していなかったが、動きも素早かったような気がする。

キッチンにいた、というのも怪しい。水気もあるし食べ物もある。いかにもヤツの好みそうな環境だ。

なにより今日は一日ずっと家の中にいたのに、アイツを見つけたのは夜だった。暗いから行動が活発になったってことじゃないのか。

考えれば考えるほど怖くなった。それからヤツは生命力が強いことを思い出し、布団から飛び出してキッチンのゴミ袋を縛って閉じた。これでひとまず安心だろう。だが既にアイツが意識を取り戻し、脱出している可能性もある。用心には用心を重ねて、ゴミ箱まわりにアイツがいないか確かめた。食器棚の影に黒っぽい埃のかたまりが落ちていて、心臓がちょっと跳ねた。結局、アイツは見つからなかった。

 

そこでふと冷静になる。

――いったい何に怯えているのだ。

この恐れは、あの虫に対するモノでは決してない。数時間前に見つけたときは平然とティッシュでつまんでいたじゃないか。じゃ、何が怖いのか。

それはブランドだと思う。ゴキブリというブランドの持つ力に圧倒されているのだ。

思えば、今まで人類はこのブランドのイメージを大切に守り育ててきた。ちょっと過剰なくらいに。見つけたらまず悲鳴を上げて、すぐに他の人を呼んで恐怖をシェアした。一人暮らしの場合は、翌日わざわざ職場や学校で知り合いをつかまえて、退治までの顛末を語った。そうすることで嫌悪感や不快感をシェアしたのである。

 

なるほど仕組みはわかった。だが長年にわたって醸成されてきたブランドイメージは、そう簡単には揺らがない。ブランドの力だとわかっていてもヤツは怖いのだ。

なにか不祥事でも起こしてくれないかなあ、と思う。

不倫とか脱税とか不適切な発言とか、とにかく一発で世間の信頼を失うような出来事があれば、ヤツへの恐怖も揺らぐのではないか。しかし相手は芸能人とかではなく、コンプラ無用の昆虫である。期待はできそうにない。

 

そこで思い付いたのが、名前の変更だ。

よく企業が「ブランドイメージの刷新のため」とかで商品名やロゴを変えたりするが、あれと同じ要領で、ヤツの名前も変えてやればいいのではないか。

でももちろんそんなこと誰でも思いつく。実際、Gという呼び名が既にある。とはいえこの商品名もかれこれ二十年以上は使われている気がする。もっと長いかもしれない。だからもはやGという呼び名にも、嫌悪や恐怖のイメージが染みついている。

 

――〈エッチ前〉ってのは、どうだろうか。

唐突ながら僕からの提案だ。

由来はシンプルで、アルファベット順でGはHの前にあるから。

エッチまえ、エッチぜん、呼び方はどちらでもイイ。個人的には後者の方がコミカルな感じがしていいと思う。北陸とカニのイメージが借景として遠くに見えるような気もする。

「昨日、夜中にエッチ前が出てさぁ…」

こんな話されても怖くないだろう。笑っちゃうと思う。実際に目の前にエッチ前が出てきても、エッチ前だと思うとあんまりイヤな感じはしない。仕方ないなあ、やれやれ。ぐらいの感覚で気楽に退治できるのではないか。

同じ理屈で〈アフター・エフ〉でもイイと思うが、これだとチープなSF映画とかに出てくる謎の新生物みたいな響きがあって、カッコいいけど怖い。

やはりエッチ前がいちばんだろう。〈エッチ前ホイホイ〉なんて言葉、にやけずに口に出す方が難しいくらいだ。

 

そんなわけですっかり恐怖は克服したはずなのだが、やはり懸念は残っている。実はついさっき、キッチンでまた小さなエッチ前らしきものを見かけたのだ。これは、つまり。

いやもう考えないことにする。

目を閉じる。浮かんでくるのはたくさんのエッチ前。

エッチ前、エッチ前、エッチ前、エッチ前。

にやけつつもやっぱり怖かった。